ラベル 福祉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 福祉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年10月18日金曜日

品定め

するのは私の方なのに

何故かサービス提供者の方が私を品定めする

商品を売っている方が

お客の人格を疑うって何

何もかもが道からはずれていて

全員が自己中で

こんな世の中で生きるのはいやだ


福祉は

人間の尊厳を守る仕事で

その人の価値観に立ち入る必要はなくて

寄り添って

生きるのを支えること


私は誰にも寄り添ってもらえてない

たぶん

今現在福祉サービスを利用している人達は全員

寄り添って頂ける喜びを感じてはいない


品定めするのは

商品を買う方の権利だ


2010年12月19日日曜日

甘えるな!

障害者手帳交付の意味を普通の健康な人は知らない。
日本では病気=障害ではない。
固定された機能障害=障害なのだ。

さぁ、「固定された機能障害」とは何なのかを説明できる普通の人はいますか?

「固定されていない機能障害」とは何を指して言うのかをご存知ですか?

ちなみに、たくさんの病気と機能障害を持っている私は障害者ではありません(笑)。
障害者手帳交付の対象にはならないからです。

日本は昔々の障害の概念を捨てきれていないからこんな変なことになる。
体のどこかが足りない、脳の発達がおかしい、普通では考えられない行動をする、の3つが障害。
それ以外は全部障害ではない。
健康なのだ。

だから言う。

健康な人は甘えるな。
障害者は甘えるな。
政治や他人に甘えて生きることをやめろ。
健康を言い訳にするな。
障害を言い訳にするな。
人生は自分の生き方次第だとわかれ。

どちらでもない私が言う。
中間の私が言う。

甘えるな!

2010年12月12日日曜日

5年3組リョウタ組

石田依良のこの作品は、ある人物を想起させる。

大学生だった頃から知っている今は小学校の先生だ。

作品中のリョウタ先生ほど単純ではないし、無鉄砲でもないが、彼は子どもが大好きで先生になった人だ。

職員室が大嫌いで、1日中教室にいたいと私に言った人だ。

学校の事務作業が多すぎると、係の仕事が多すぎると嘆いた人だ。

子どもが大好きなだけでは小学校の先生はできないことを、先生になってから気づいた人だ。









その人が今は私のお客様になっている。

自分の子どもが障害を持って生まれたからだ。

何故私に相談する気になったのかは知らないが、私はお客様としてではなく、昔からの知人として彼に接したいと思っている。

子どもは障害があろうとなかろうと、可愛い。

それだけで十分。

五体満足で生まれた子どもより、より多くの幸せを運んできてくれる天使だ。

病院もリハビリも自宅での生活も、より細やかな手は必要で、その分触れる回数が多くなる。

幸せなこと。









作中で身体障害の養護学校の様子が描かれているが、作者が取材した学校が1ヶ所なのがすぐわかる。

他の身体障害の養護学校も取材していれば、作中に描く学校内の様子が違ってきているはずだからだ。

身体障害の養護学校は生徒1人に先生1人の配置だが、知的障害の養護学校では配置されない。

今は特別支援校として、障害の種別に関係なく生徒が学校を選べる体制になっている。

表向きは。

施設併設の特別支援校も珍しくはないが、廃止の方向になっている。

障害児を取り巻く環境は、障害を持っていない人が想像するよりも厳しいものになっているのだ。

そこまで作品の中で描く必要はないが、特別支援校以外に選ぶ権利が保障されて、リョウタ先生のいる普通校にも障害児は入学することができるのだ。

作中の障害児が普通校に入学すればおもしろかったのに。









作品としては何気ない普通の生活が描かれていて、とても良い作品だと思う。

私の身の周りで普通に起きていることばかりだ。

生活の中の普通のこと。

それはトラブルではないし、人生を大きく変える出来事でもない。

この作品の中の出来事を「大変なこと」と思った人は頭が幸せな人だ。

よほど自分の子ども時代を忘れている人だ。

子どもは間違えるのが仕事だし、イタズラするのが仕事。

その方法も思いつくことも子ども自身の個性だ。

それを色々なオトナがサポートするのが大人の仕事。

先生でなくても「大人」になればそれが仕事になる。

自分の子どもも他人の子どもも全てが可能性のカタマリ。

サポートしないオトナは自分のことを「大人」と呼ばないで欲しい。









5年3組リョウタ組は、理想のクラスでもない、当たり前のクラスだ。

2010年10月13日水曜日

非正規レジスタンス

IWGPの新刊を読み終えた。
作品はオチが読めたものばかりだった。
池袋のマコトは大人になって、大人の対応を覚えたようだ。

ここで作品の悪口を言うつもりはない。
文学(?)の中の人間だって成長しなければリアルに共感はできない。
でも、職業柄オチが読めてしまうのは作者が私のいる業界に足を踏み入れ過ぎた感はある。
それも薄っぺらな表面的なところで。

福祉を題材に取り上げるのは悪いことではないし、大いに取り上げて頂きたいと思う。
ただ、前回ここで書いたように『正確な取材』をして頂きたい。

母子福祉はそこまで親切ではないし、現状は自立支援施設もすぐに入れる訳ではない。
(虐待児童増加で空きがない)
DVも根が深く、そんなに簡単に解決できるのならマコトが10,000人いて欲しい。
日本の生活保護制度はもう限界を迎えている。
ネカフェ難民問題と派遣問題は解決済みという意識で作品を書いたのならば、それは間違いだ。
派遣会社の支店長が言うように、健康な人間ならば親に謝って郷里に帰るのが1番いい。
家庭でのイザコザは貧しさの前では塵のようなものだからだ。
生活保護制度は世帯単位が基本だから、住所さえあれば1人世帯でも受けられる。
受けられるが、年々国費は削減されている現状を書いていない。
ネカフェ難民が生活保護を申請したおかげで昨年の生活保護世帯は190万世帯増加した。
本来は親兄弟姉妹親類縁者が誰1人いない世帯を1人世帯として想定して作られた法律だから、親兄弟姉妹親類縁者がいる人は受けられない制度だ。
これが柔軟に対応するということなのか?
私が親にイヤイヤ頭を下げたのは昔の話しになってしまうのか?

今の人の貧しさなんて、本当の貧しさではない。
作者はそれを知らない。
・・・と思う。
1泊1,000円のネカフェ代は1ケ月3万円になる。
東京で3万円は安いのかもしれないが、地方だと安アパートを借りられる値段だ。
1回のシャワーに300円?
安アパートを借りれば水道代とガス代の方が安い。
ゴミをあさって何が悪い?
家はあるけどゴミはあさる生活をしている私達親子はどこに分類されるの?
食べるのを我慢しているのは難民だけではない。
食べられない病気だから食費が安くて助かっているけれど、エンゲル系数は50%だ。

私が母子家庭になった時に相談員の方がおっしゃたことは「まず家」。
「屋根がある所で子育てをしなさい」と言われた。
「家さえあれば節約できるところはいくらでもある」とも言われた。
今も本当に感謝している方のその言葉は正しかったと思う。
食べるのさえ苦労した別居時代と比べて、食べるのだけは何とかなったからだ。
その別居時代でさえアパートは借りた。
家賃も税金も保険料も全部支払った後に残されたお金で何とかなった。
何とかした。

働く場所がないのは国の責任だと私も思う。
思うが、まず自分の親に頭を下げることができない人間は運にも見離されると思う。
私は親姉妹に頭を下げて家を借りることができたし、子どもも障害児ということで保育所にもすんなり入れた。
月4万円の養育費が支払われる間に就職も決まった。
(決まったとたんに養育費が途絶えたのは偶然だろうか?)
そう、1月の生活費が4万円だったのだ。
それで親子3人暮らしていたのだ。
母子福祉の援助があったとしてもだ。
(当時は児童福祉手当の他に医療費が無料だった)
唯一の娯楽がテレビという、いつの時代かわからない生活をしていたのだ。
(今もあまり変わらない生活・・・)
もちろん、家を借りた後は親姉妹に一切援助してもらっていない。
頭を下げたのは、保証人と引越し費用・初期費用を出してもらうだけのことだった。
それでも私は一生懸命返せるお金は返済したし、足りない部分は体で支払ったつもりだ。

生活保護は最後の手段と決めていた。
そう、あくまでも「手段」なのだ。この国は。
働ける体であれば、保護中でも就職活動をせっつかれる。
ギリギリの生活費しか受け取れないのに、その中から履歴書代や証明写真代、面接に行く為の交通費全てを出さなければいけないのだ。
ネカフェ難民とどこが違う?
医療費は出してくれるが、1つの病気で1ヶ所しか病院に行けない。
セカンドオピニオンなんていう自由はない。
家賃は出してくれるが、共益費は保護費の中にはない。
生活保護制度は本当に最低限の生活を保障するだけなのだ。
保護世帯は水道光熱費と食費の節約をしなければ生きていけないレベルだ。
1週間に1回しかお風呂に入らない。
カップ麺なんて贅沢品は食べない。
病気で体が動かなければ病院にも行かない。
命が本当に危ない時にしか救急は使えない。
(それでも救急に行かずに命を失くした人を知っている)

ネカフェ難民がどうしたと言うのだ。
非正規雇用(日雇い)が何だと言うのだ。
昔は「あいりん地区」のように日雇い労働者の町があって、お互い助け合って生き延びてきた人達がいる。
健康保険がないということは、作中で彼らが見下しているホームレスと一緒だ。
ホームレスとは直訳で「家がない」ではないか。
マコトのやり方が正しいかどうかではない。
ネカフェ難民の子に怒っている。
非正規労働で働いている子に怒っている。
誰に取材したのかは知らないが、作者の表現通りであるならば、「努力」や「自己責任」という言葉の意味を取り違えている。
「自己責任」とは、自分で責任をとれる範囲のことを言うのであって、自分で責任がとれない範囲のことは言わない。
それは他者だったり、国だったりする。
キレて何が悪い?
キレないと心が病んでしまう時だってある。
1度心が病んでしまうと本当に一生生活保護の下で生きなければならなくなる。
焼肉が食べたいだと?
焼肉なんて超贅沢は数年に1回だ。

マコトは自分も社会の底辺だと言う。
今まで作品を読んでいて私は1回もそう思ったことはない。
マコトのお母さんの気持ちと努力と根性を想像すると、マコトが底辺だと言うのはおかしい。
店がある。
一生困らない店がある。
生活に困っても売れる店がある。
実家の店番で年収200万円は多いと思う。
家賃、食費、水道光熱費、店の経費は全部タダということになる。
マコトのお母さんが経理を受け持っているのなら甘すぎだ。
子どものお小遣いに年に200万円もやるのだから。
それだけで十分中流階級家庭だ。
いや、月に16万円もお小遣いがあるのは中流でもなかなかいない。
(母親に頼らずに純粋にマコトが店を経営しているのならば話しは別だが)
そういうことに気づかないところはまだ子どもということか。

今回の作品は全部駄作だ。
読んでも若い人達のエネルギーが伝わってこない。
爽快感がない。
私にはあまりにもリアル過ぎて、現実に近過ぎて、オチが読めてしまっておもしろくなかった。
石田衣良の作品とは思えないくらい。
美丘が傑作なのは確かだが、ドラマは最後まで観なかった。
全然別の作品だったし、1つのドラマとしては私のツボにははまらなかった。
今回の作品はそのドラマと同じ感覚がする。
省略し過ぎている。
リアルに近いが詰めが甘い。
マコトにはやはり警察沙汰が似合うと思う。
正確な情報を書けないのであれば福祉にはこれ以上触れないで欲しい。
マコトと福祉は別世界でいて欲しい。

2010年5月6日木曜日

太平ラク

社長という職業は「責任を取ることが仕事だ」とずっと信じていたが、今はそうではないみたいだ。
雇われる側が、つまり労働者が何でも知っていなければいけないらしいのだ。
知らなければ社長も会社も責任は問われないらしい。
時代は変わったものだと思う。
雇う側の理屈が通ってしまうから法律は雇われる側を守ろうとしているのに、労働者は法律を勉強しているヒマがない。
知らない、知ろうとしないバカばかりになってしまったのか、この国は。
昔から意地汚いことをする人はいくらでもいたが、時代によってそれは正しかったり間違っていたりするものだ。
それを批判するには「確かめて知ること」ができないと、批判してはいけない。
プライベートの理屈が社会の理屈ではない。
ビジネスとプライベートを分けることができない会社と社長。
その存在の多さに驚く。
やはり太平の世は長くは続かない。
その努力を惜しむ人達が上にいては続かない。
病気や障害で働けない人達の気持ちなんて、はるか彼方の夢のまた夢。

2010年5月1日土曜日

自分しか見えない人

腹立ちがおさまらない。
どうして法律を素直に守れないのか。
たかが法律なのに。
紙1枚でお上の目はそれるのに。
紙1枚に、たった3分の仕事の手間にゴチャゴチャ言う必要がどこにあるのかわからない。
その人の気持ちや考え方と社会で守る規則は別物だとどうして気づかない。
悲しくて。
悔しくて。
腹が立つ。
会社の社長が法律を無視するにはそれなりのテクニックが要る。
何も知らないことを公然と言い放つその姿は哀れで哀しい。
私はお客様を守りたい。
たとえそんな社長であっても、その会社にしか頼るところがないお客様を守りたい。
愛想がいいのと会社を守れる手腕は全く別。
最低限の法律は守らないと目をつけられる。
綻びだらけの会社で社員が安心して働けるとは思わない。
そういう会社とは知らずに契約しているお客様が可哀想だ。

障害者は法律に縛られる。
何事も法律、法律、法律。
日本で1番法令遵守しているのは障害者だ。
健常者の法令違反ほど酷いものはない。
それに甘えている現実を皆知らない、知ろうとしない。
弱い者を助ける顔をして助けになっていない現実を無視している。
本当に相手の立場になって思いやる人間は日本にはもういないのかもしれない。
想像力が足りなさ過ぎる。
障害者こそいい迷惑だ。

2010年3月12日金曜日

思い出させないで

「障害者保健福祉計画策定」・・・

思い出したくないのに、こうやって何かしら思い出す機会が訪れる。
「いやな思いをしたこと」・・・
いっぱいあります。
「困ったこと」・・・
いっぱいあります。
子どもがしょうがいを持って生まれたというだけで。
医療・保健・福祉のお世話になってきました。
でも、実際に力になってくれたのは福祉事務所の親身になってくれた方と保育所の先生、それから子どもの友達になってくれた子ども達。
夫も夫の家族もすごくすごく頑張って助けてくれようとしたけれど、それは、その時の私が欲しい援助じゃなかった。
もともと私の家族は誰も助けてはくれなかったから、それを恥ずかしいと思う気持ちと遠慮が、私を素直に要求することから遠ざけていた。
今振り返るとそう思う。
離婚してしまったけれど、それは全く後悔はしていないけれど、今も夫だった人の家族には感謝している。
こんなことまで思い出させるなんて、残酷。
早く清書しなくちゃ、と思うだけで〆切が近づいてしまった。
「いやなこと」「困ったこと」・・・
もう全部過去のことなのに、昔と今とごっちゃになって感情が迸る。
福祉は残酷なものだと、改めて感じる。
それを仕事に選んだ・・・選ばされたかもしれないけれど、私は残酷なことの中にいる。
いつもいつも他人の泣く姿を見て、自分ではないと自分に言い聞かせ、これからの話しをする。
福祉に関係なく生きている人の言葉に腹が立つ。
福祉関係者の無責任な言葉に腹が立つ。
どの人も「人」。
人であることには違いはないのに、どうして上手くいかないの。
自分や自分の家族の責任は結局その人本人にしか取りようがないのに、まるで法律がその人の人生を握っているかのようなおぞましさ。
それを自分が握っているかのように振舞う人のおぞましさ。
「上」とか「下」とか私は考えたことがない。
どの人も人。
しょうがいがあるから法律に振り回されているんじゃない。
人は大昔から全員振り回されている。
得たいの知れない「権力」に。
そう、だからこの仕事を辞められない。
ちゃんと書こう。
ちゃんと発信しよう。
昔、夫の家族に言えなかったこと。
自分の家族に言えなかったこと。
周りの人に言えなかったこと。

私はしょうがいを持って生まれた子ども達を愛しています。
子ども達が「人」として生きる条件は法律に縛られるものではありません。
子ども達が自分で人生を生きるのです。
その選択する権利だけは奪わないでください。
私が自分1人で生きてきたとは思いませんが、選択する機会はありました。
その選択権だけは奪わないでください。
と。

2009年12月12日土曜日

さっきの続き

1つ大事なことを書くのを忘れた。




「少年計数機」の中で描かれているような発達障害の子どもに精神安定剤は使わない。
理由その1、軽度。
理由その2、パニック症状でてんかん発作を起こしていない。
理由その3、そもそも日本には小児用の精神安定剤が存在しない。
小説だから許されることなのかどうかよくわからないが、情報収集不足も甚だしい。
私の情報も古いのかもしれないが、今のところ「子どもの鬱」が確認されているだけで薬の開発は聞いていない。
発達障害の子どものパニック症状は周囲の人間(オトナ)の対応で十分軽くすることができるし、成長にともなって回数が減るのが普通だ。
私は個人的に発達障害と認知症は類似していると思っている。
どちらも脳の変化やダメージ・回路連結の問題が原因で、それによって起こる様々な症状は2次的症状だからだ。
パニックは何も病気を持っていない人でも起こす。
予期・予測できない事態に遭遇すると誰でもパニックになる。
それが、何か(普通の人間にとっては)些細な原因でパニック症状を起こすのが発達障害だ。
認知症も同じことが言える。
パニックは2次的症状の1つだから、原因を取り除いて本人が他に気をそらせることができれば症状は治まる。
何も薬を使う必要は全くない。
(ただし、重度の発達障害は知的障害をともなう場合が多いので薬剤を使用する場合もある)
石田衣良がどんな方法で発達障害の情報を収集したのか知らないが、そこらへんに売っているたくさんの本の中から抽出したのであれば、それはハズレだったとしか言いようがない。
専門の医師に取材したのだとしても、それはハズレ医師だったとしか言いようがない。
医師が正しいことを話したのであれば、石田衣良が理解能力に欠けていたとしか言いようがない。
それほど私は怒っている。
発達障害ほど誤解されている障害はないと思うからだ。
難病でもなく、身体のどこかが欠けているわけでもなく、知的に遅れているわけでもなく、精神的には何も異常がないのに、「普通ではない」のだ。
昔なら「ただのアホ」で「おかしなヤツ」なのだ。
そんな表現でいいなら、そんな人間は今はいっぱいいる。
脳を調べたことがあるかないかの違いだけだ。




石田衣良を攻撃しているのではない。
エライ文学賞を取る作家でも間違うくらい発達障害の理解は難しいと言っているだけだ。
ただ、影響力の大きさを考えて作品を出して欲しかった。
それに評論家の目のふし穴加減に呆れただけだ。
私は石田衣良の作品では「美丘」が好きだ。
この作品は良い。
心と心がどこか分離している微妙なラインが好きだ。
それでいて共時性がある不思議な作品だ。
しばらくIWGPを読み返す日々が続くのだろうが、今のところ「水のなかの目」が1番良い。
医学的・精神的分析をするのならば、この作品の少年の方がよっぽど「おかしい障害」を持っている。

発達障害の理解間違いのもと

ネットで十分だと思っていた小説家の短編を文庫で買うようになり、
ネットで読んでいた小説もオトナ買いして今読み直している。
石田衣良。
この間、NHKの障害者何とか賞をもらった人。
池袋ウエストゲートパーク。
長瀬智也が主人公を演じたドラマは好きだ。




でも、気に入らないことが1つ。
文庫の巻末に書いている文藝評論家だかナンだかわからないオッサン達。
彼らはIWGPの中でも傑作は「少年計数機」だと言う。
私は1番の駄作だとずっと思っていたし、その考えはこれからも変わらない。
「少年計数機」の中に出てくる発達障害の子どもの描写が間違っている。
作者の発達障害の説明も間違っている。
LDは大学の教授でさえ「学校の勉強ができないこと」だと間違えている。
学校の勉強ができない子どもはたくさんいる。
LDは「学習」そのものに障害がある。
「学習」とは人間が人間である所以の大元だ。
小脳で生きることはできる。
人間が人間であるのは学習するからだ。
言葉を覚える、歯をみがく、服を着替える、遊びのルールを覚える・・・
人間の成長は全部が学習で成り立っている。
それが阻害される障害が学習障害=LDだ。
生活そのものの学習が遅れるのだから学校の勉強についていけるはずがない。
「少年計数機」の中の少年(正しくは学童)は、どう読んでもLDではない。
超軽度の自閉とアスペルガー+確実にADHDだと思う。
コミュニケーションがまともに(普通の人にはわからないと思うが)とれているのが、作者の誤解を表している。
発達障害はどの障害もコミュニケーションに1番の問題がある。
それに危機的状況の把握も難しいし、「暗号」など高度な解決策は無理だ。
普通の人(一応ここでは対比的に使うが、普通の人などこの世にいない)には思いつかないアイディアや思考回路を発達障害の子ども達は持っているが、作品の中に描かれた以上の解決策のはずだ。
「少年計数機」の中の少年を発達障害というならば、作者が描く池袋西口公園に集まるどこにもいけない少年達の方が発達障害の可能性が高い。
作者が揶揄的に「小脳で生きている」レベルの人間達だ。
私はLDの子どもを育てている。
現在進行形なのは、この障害には終わりがないからだ。
人間は人生が終わる瞬間まで発達し続ける生き物だからだ。




純文学がどうのではなく、石田衣良は悪文家だ。
それでも物語に引っ張り込まれる文章構成の良さ、ディティールの細かさなどがこの人の持ち味だ。
主人公の心の動きが今の若い人独特さを表しているし、どこにもいけない、どこにいったらいいのかわからない(オトナだってそんなこと知らない)から群れている若い人達がよく描写されている。
それでも、最初の情報収集が間違っているからどんなに作品全体が良くても「少年計数機」は駄作だ。
こんなに有名な、若い人が読む小説で間違った情報を書かないで欲しい。
フィクションでノンフィクションが困った状態になるのは間違っている。




今は見える障害よりも見えない障害の割合の方が多い。
石田衣良も書いているが、昔は無視されていた障害に名前がついたからというのもある。
しかし、昔は助からなかった赤ちゃんが助かるようになったというのが1番の理由ではないだろうか。
全く自分には関係ないと知らん顔して生きていても、周りには確実に数人の障害者がいる世の中になっている。
障害抜きで世の中は語れない時代になってきているのに、まだ知らん顔ばかり。
「少年計数機」はそういう意味でも駄作だ。

2009年4月12日日曜日

主婦業

は、嫌いじゃありません。

料理、洗濯、掃除、ゴミ分別、は毎日のこと。
1週間に1回すること。
2週間に1回すること。
1ケ月に1回すること。
季節ごとにすること。
子どものこと。
学校や社会とのおつきあい。
親戚づきあい。
家族の病気や事故、介護・・・。
金銭管理・・・。

主婦は世の中で一番しんどい仕事やと思います。
だから専業主婦の方を私は尊敬しています。

どうしても私は専業主婦ができない・・・。
仕事をしていなければ、
友達と遊びに行かなければ、
ひとりで趣味を楽しまなければ、
「主婦」という仕事ができないみたいです。

人はそんなモンじゃないですか?
男だって、女だって、若くたって、年いってたって、
「自分」がなければできないことが多くなるんじゃないですか?

福祉は
『どーしたって自分の力ではできない』ことを『皆で助け合う』ことだと思います。
そういう意味では、主婦業はほとんど全部自分ひとりでしている事が多いです。
偉いなぁ・・・(感心)。

「家は社会の最小単位」という言葉をご存知ですか?
次はこの話しをしましょう。

2009年3月27日金曜日

全く違う

・・・と考えているのは私だけではないはず、です。

それは「看護」と「介護」。

「護」という漢字は一緒ですが、頭の漢字が違いますよね?
なぜ違うのか、を皆さん考えて下さいよぉ~!
と、思います。

短絡的に言えば「看護」は医療で「介護」は福祉です。
だから「医療」と「福祉」も全く違うものです。

人は病気になれば病院に行き、医師の診断を受け、看護を受ける。

人は何か困った事が身にふりかかれば福祉事務所に行き、適切なサービスなり、援助を受ける。

ね、違うでしょ?

看護師の仕事と学校の教師の仕事が一緒だと言う人がいますか?
八百屋で野菜を売るのと介護の仕事は一緒だと思いますか?

それぐらい違うんですよ。


でも、最近は介護が看護の一部のように言われています。
成り立ちも歴史も違う、仕事の内容も違う、理論も違う、
違う事だらけの事を無理矢理一緒くたにしようとしています。

とぉーっても気に入らない(怒)。

福祉の原点はナイチンゲールではなぁーいっ!!!

福祉の原点は「人を思いやる心」です。
だから歴史的にも縄文時代から「ある」とされています。

人が人を思う心が福祉です。私はそう思います。

福祉が制度や時代背景に左右されてしまう要素があるのも
「人」が中心だからだと思います。



このお話しはまだまだ続きます。