障害者手帳交付の意味を普通の健康な人は知らない。
日本では病気=障害ではない。
固定された機能障害=障害なのだ。
さぁ、「固定された機能障害」とは何なのかを説明できる普通の人はいますか?
「固定されていない機能障害」とは何を指して言うのかをご存知ですか?
ちなみに、たくさんの病気と機能障害を持っている私は障害者ではありません(笑)。
障害者手帳交付の対象にはならないからです。
日本は昔々の障害の概念を捨てきれていないからこんな変なことになる。
体のどこかが足りない、脳の発達がおかしい、普通では考えられない行動をする、の3つが障害。
それ以外は全部障害ではない。
健康なのだ。
だから言う。
健康な人は甘えるな。
障害者は甘えるな。
政治や他人に甘えて生きることをやめろ。
健康を言い訳にするな。
障害を言い訳にするな。
人生は自分の生き方次第だとわかれ。
どちらでもない私が言う。
中間の私が言う。
甘えるな!
2010年12月12日日曜日
5年3組リョウタ組
石田依良のこの作品は、ある人物を想起させる。
大学生だった頃から知っている今は小学校の先生だ。
作品中のリョウタ先生ほど単純ではないし、無鉄砲でもないが、彼は子どもが大好きで先生になった人だ。
職員室が大嫌いで、1日中教室にいたいと私に言った人だ。
学校の事務作業が多すぎると、係の仕事が多すぎると嘆いた人だ。
子どもが大好きなだけでは小学校の先生はできないことを、先生になってから気づいた人だ。
その人が今は私のお客様になっている。
自分の子どもが障害を持って生まれたからだ。
何故私に相談する気になったのかは知らないが、私はお客様としてではなく、昔からの知人として彼に接したいと思っている。
子どもは障害があろうとなかろうと、可愛い。
それだけで十分。
五体満足で生まれた子どもより、より多くの幸せを運んできてくれる天使だ。
病院もリハビリも自宅での生活も、より細やかな手は必要で、その分触れる回数が多くなる。
幸せなこと。
作中で身体障害の養護学校の様子が描かれているが、作者が取材した学校が1ヶ所なのがすぐわかる。
他の身体障害の養護学校も取材していれば、作中に描く学校内の様子が違ってきているはずだからだ。
身体障害の養護学校は生徒1人に先生1人の配置だが、知的障害の養護学校では配置されない。
今は特別支援校として、障害の種別に関係なく生徒が学校を選べる体制になっている。
表向きは。
施設併設の特別支援校も珍しくはないが、廃止の方向になっている。
障害児を取り巻く環境は、障害を持っていない人が想像するよりも厳しいものになっているのだ。
そこまで作品の中で描く必要はないが、特別支援校以外に選ぶ権利が保障されて、リョウタ先生のいる普通校にも障害児は入学することができるのだ。
作中の障害児が普通校に入学すればおもしろかったのに。
作品としては何気ない普通の生活が描かれていて、とても良い作品だと思う。
私の身の周りで普通に起きていることばかりだ。
生活の中の普通のこと。
それはトラブルではないし、人生を大きく変える出来事でもない。
この作品の中の出来事を「大変なこと」と思った人は頭が幸せな人だ。
よほど自分の子ども時代を忘れている人だ。
子どもは間違えるのが仕事だし、イタズラするのが仕事。
その方法も思いつくことも子ども自身の個性だ。
それを色々なオトナがサポートするのが大人の仕事。
先生でなくても「大人」になればそれが仕事になる。
自分の子どもも他人の子どもも全てが可能性のカタマリ。
サポートしないオトナは自分のことを「大人」と呼ばないで欲しい。
5年3組リョウタ組は、理想のクラスでもない、当たり前のクラスだ。
大学生だった頃から知っている今は小学校の先生だ。
作品中のリョウタ先生ほど単純ではないし、無鉄砲でもないが、彼は子どもが大好きで先生になった人だ。
職員室が大嫌いで、1日中教室にいたいと私に言った人だ。
学校の事務作業が多すぎると、係の仕事が多すぎると嘆いた人だ。
子どもが大好きなだけでは小学校の先生はできないことを、先生になってから気づいた人だ。
その人が今は私のお客様になっている。
自分の子どもが障害を持って生まれたからだ。
何故私に相談する気になったのかは知らないが、私はお客様としてではなく、昔からの知人として彼に接したいと思っている。
子どもは障害があろうとなかろうと、可愛い。
それだけで十分。
五体満足で生まれた子どもより、より多くの幸せを運んできてくれる天使だ。
病院もリハビリも自宅での生活も、より細やかな手は必要で、その分触れる回数が多くなる。
幸せなこと。
作中で身体障害の養護学校の様子が描かれているが、作者が取材した学校が1ヶ所なのがすぐわかる。
他の身体障害の養護学校も取材していれば、作中に描く学校内の様子が違ってきているはずだからだ。
身体障害の養護学校は生徒1人に先生1人の配置だが、知的障害の養護学校では配置されない。
今は特別支援校として、障害の種別に関係なく生徒が学校を選べる体制になっている。
表向きは。
施設併設の特別支援校も珍しくはないが、廃止の方向になっている。
障害児を取り巻く環境は、障害を持っていない人が想像するよりも厳しいものになっているのだ。
そこまで作品の中で描く必要はないが、特別支援校以外に選ぶ権利が保障されて、リョウタ先生のいる普通校にも障害児は入学することができるのだ。
作中の障害児が普通校に入学すればおもしろかったのに。
作品としては何気ない普通の生活が描かれていて、とても良い作品だと思う。
私の身の周りで普通に起きていることばかりだ。
生活の中の普通のこと。
それはトラブルではないし、人生を大きく変える出来事でもない。
この作品の中の出来事を「大変なこと」と思った人は頭が幸せな人だ。
よほど自分の子ども時代を忘れている人だ。
子どもは間違えるのが仕事だし、イタズラするのが仕事。
その方法も思いつくことも子ども自身の個性だ。
それを色々なオトナがサポートするのが大人の仕事。
先生でなくても「大人」になればそれが仕事になる。
自分の子どもも他人の子どもも全てが可能性のカタマリ。
サポートしないオトナは自分のことを「大人」と呼ばないで欲しい。
5年3組リョウタ組は、理想のクラスでもない、当たり前のクラスだ。
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