2010年1月27日水曜日

どうして

許せない気持ちが残るのか
私の喘息は妹が原因なのに
誰も気づかない
妹も忘れている
妹だけじゃない
あの時の私の家族全員の責任なのに

病気を持って産まれたのがそんなにダメですか
私の責任ではない公害病になったのはそんなにダメですか
遺伝子も関係なく私がダメな存在ですか

病気がある人に対する態度がそれですか
家のフローリングが傷むから車椅子は家に入ったらダメなんですか
もう左耳は聞こえないと言ってあるのに
聞き間違いを責めるのですか
隔離してそれで自分が優しいと言うのですか

皆、全員、謝れ
この私に謝れ
謝罪しろ
許せない

だけど
1度でいいから「お母さん」と呼びたかった
母に強制された呼び方ではなく
自分の言葉で「お母さん」と呼びたかった

産んでくれてありがとう
あなたがどんな人でも
私を産んでくれなければ
私は大切な大切な子ども達に会えなかった
私が子どもを産むことができたのは
あなたが私を産んでくれたから
だから
産んでくれてありがとう
これだけは伝えたい
伝わらないけれど

謝罪してもらいたい気持ちと伝えたい言葉
両立するはずのない2つ
私の心はどこか壊れている

2010年1月26日火曜日

産まれなおす

昨晩、息子が私の布団に入ってきた。

「何か疲れんねん。寝ても疲れが取れへんねん。」

と彼は言う。

私は「じゃあ、エネルギー注入するわ」と彼のおでこに唇を当てる。

「あっ、間違って吸うてしもたわ(笑)」

「えーっ!」

「ごめん、ごめん。よしよし・・・」

と彼の頭を撫でる。

彼は目を閉じて心地よさそうに抱かれている。

私も何も考えないでその温かさに身を任せる。

2人で至福の数分を堪能する。

「うん。もう、ええわ。」

と、息子が布団を出て行く。

この作業が私は大好きだ。





年に数回、彼は私の布団に入ってきて私に抱っこされる。

自分ではどうしようもない時に、彼は「産まれなおし」の儀式としてやってくるのだ。

母ちゃんの布団は何故か温かい。

母ちゃんの抱っこは気持ちいい。

それだけで彼は産まれなおって明日からの日々を生きる。

「産まれなおす」という事は、「1回死んで産まれかわる」という意味を持つ。

息子は何度も何度も私から産まれているのだ。

母としてこれほどの幸せがあろうか。

私は何度も息子を産んでこれ以上ないほどの幸せを感じている。





私も母から産まれなおしたかった。

こんな幸せを拒んだ母は、やはりどうしようもないのだ。

私は息子のおかげでこの幸せを知った。

ありがたい事だと、布団から出て行く息子に心の中で感謝する。

2010年1月18日月曜日

葛藤

相反する心を整理する為に、脳はいろいろな事をする。
不眠だったり、寝ても夢ばっかりだったり、食欲がなくなるし、何もする気がなくなったり。
震災の報道は今年も片寄ったモノばかりで、しんどくなるだけだった。
1人1人体験した事は違うし、心の傷つき方も違うのに。
私も子どももPTSDで今も苦しんでいる。
統計には入っていない数のうちだ。
この時期はしんどい。
本当にしんどい。
ちょっとガンバッテみようかとガンバッテみたが、無理だった。
哀しいだけだった。
他人には理解できない。
ましてや市内でも「震災があった地域」と「そうでない地域」がある事は報道されない。
そういう区別がされていないから「家がない」「水がない」気持ちがわかる人とそうでない人がいることも報道されない。
親族の中で私と私の子どもだけが「震度7」に遭った。
だから親族よりも同じ境遇にいた人達の方が話しやすいのは確かだが、でも、他人。
それぞれ違う。
私達は助かったワケだし。
そうだ・・・
父だけは私の家に来て、私を助けてくれた。
戦争に行った人だから、ひどい惨状にも冷静だった。
すべて私1人が元の生活に戻れるようにやってきたのだと思い込んでいた。
そう、父だけは助けてくれた。
その後に喧嘩したんだった・・・。
思い出せてよかった。
本当に今、思い出した。
1年の記憶がなくなるくらい、と表現したのは間違いじゃなかった。
本当に記憶間違いがたくさんあるみたい。
これは私が墓に入るまで続く作業なんだろう、たぶん。

2010年1月16日土曜日

やっと

少~し向き合えるようになったのかもしれない。
いろいろな事に。
怒りをぶつける相手のいない事から15年かぁ・・・。
去年、広島で原爆資料館で見た写真と同じような光景を実際この目で見た日から。
「冷静沈着に行動できる」私は、その時でさえ変な人と呼ばれた。
自分の子どもを守ることしか頭になかったから、周りの声はどうでもよかった。
ただ、マスコミで報道されているような事も事実だけれど、障害者が困った事も事実だけれど、母子家庭が困った事はあまり報道されない。
家がない、小さい子どもがいる、障害児だ、お金がない、食料配給に並ばなければいけない、銭湯に子どもを連れて行く、会社に行って働かないと来月の給料が出ない・・・
地域の住宅修理の話し合い、学校との連絡・・・
転々と住む所を変えながらのいろいろな事は1年間の記憶がなくなるくらいだった。
でも、ハッキリ覚えているのは父親の死だ。
3月に病院に行った時にはたぶんもう手遅れの状態だったのだろうと思う。
水道がまだ復旧していないからと、病院側の他市への転院を断った父。
「自分の家を守りたい」
この言葉が真実だったのかどうかはもうわからない。
8月に入院するまで自宅をその手で建て直した。
私もいろいろなことに忙し過ぎて、父の様子を見に行けたのは10月からだった。
それが良かったのかどうかもわからない。
父には私が死神に見えたのだろうか。
あちこち歪んだままの家に戻って学校との連絡にも困らなくなった時から、子どもを守ることから父に会いに行く事にエネルギーの半分はシフトした。
助からないという事は、私にはわかっていたように思う。
医師の説明も十分理解できたし、それが「余命○○ケ月」と呼ばれるものである事もスンナリ納得できた。
変な人間だと、自分でも思う。
我が父の余命をスンナリ受け止めるなんて。
でも、現実は変えられない。
できる事は全部する事しかないと、生きている間が全てだと、その時はそう思った。
でも、母とは違う悔いは残った。
地震がなければもう少し生きられたかもしれない。
父が家に執着しなければもう少し生きられたかもしれない。
転院していればもう少し生きられたかもしれない。
どれもこれも、今となってはしかたがなかったとしか言いようがない。
地震は起こっていたし、明治からの家を支えたのは父だし、転院していても手遅れだった・・・。
私にできる事は全部できたかな。
お互い強情で頑固だから喧嘩したそのまま別れてしまったけれど、それで良かったのかな。
「ごめんね。」
の一言を言えれば良かったのかな・・・。
父も震災死に認定される事を母に伝えたけれど、母はキッパリ断った。
それは父も望んでいない事かもしれないけれど、私はお墓以外に父に会いに行く場所が欲しかった。
いつでも父に会える場所が欲しかった。
それは私の我儘なのだろう。
父を思い出すのは年に数回になってしまったけれど、それでもこんなに哀しい思いが胸から湧き上ってくる。
傷ついたのは私だけじゃない。
哀しいのは私だけじゃない。
そう願っている。

2010年1月15日金曜日

相反する心

を、スーパーバイズしてもらったらラクになった。

「なるようになる」

「全てはわからないところで進む」

わかっていたことなのに、人の心はそれを裏切る。





先生、全然失礼やないですよ。

私のご一党は・・・家系は、ほとんど皆『普通の人』で『自分が1番かわいい人』達です。

障害者を差別し、自分だけには老いも死も関係ないと思い込んでいる人達です。

私だけがハズレ者な訳ではありません。

私は現実に病気を抱え、機能障害もあるだけのことです。

最期の時を待っている人だから、他のご一党様方とは少し違うだけです。

私の中にあるDNAは、まぎれもないご一党のモノです。

ただ、私が先生にスーパーバイズを求めるのは、信頼関係の他に何かあると思うんです。

「糸」というか、「線」というか、そのようなモノ。

私と先生は「点」同士なんだけれども、「糸」で繫がっているようなカンジです。

また電話します。

年末の大掃除の話しを忘れたので。

2010年1月7日木曜日

悪企み

今年の正月の親族の集まりは結構おもしろかった。
親族と言っても親子3代の集まり。
毎年律儀に計画を立てる姉や妹が私は笑えてしょうがない。
1年中ほったらかしで、母の健康状態とか生活状態を把握する気はないのに、正月と母の日と還暦や古希のお祝い事だけは非常に気にする。
まるで遠い所に住んでる嫁状態やね(笑)。
さしづめ私は長男の嫁状態か・・・?
これを打破する為に今年の集まりはわざと迷惑をかけに行った。
「自分の家に集まらないか」と言い出した妹が悪い。
私の悪企みが始まってしまったからだ。
1回計画を立ててしまうと止まらなくなってしまった。
誰も母に関心がないのと同じで、誰も私の健康状態を知らない。
私は小さい頃から私の家族に徹底的に無視されてきた自分を不幸だとは思わないけれど、母の介護ができなくなった今は他の介護義務者に理解してもらう必要が出てきた。

母の介護をするのはだぁ~れだ?

心のロシアンルーレットに引っ張り込む強力なインパクトが必要だったのだ。
私以外は世間で言う『普通の人』で『障害者や老人は私には関係ありません』と思い込んでいる。
自分もいつ障害者になるかわからない、将来は老人になることに気がついていない、自分が1番かわいそうな人生だと思っている、私から言わせてもらえば「ドアホな人生しか送っていない人達」にスーパーパンチをおみまいしなければならなかったのだ。
思った通り、私が行くと誰1人として「障害」や「老い」を考えたことがないドアホな言動(笑)。
知らなくて幸せなこともあるけれど、自分の将来さえ考えないのは「無知の罪」だ。
ましてや自分の実の母親を介護施設にポンと入れることしか考えないのはホンマもんのドアホとしか言いようがない。
今の介護保険がどんな状態かも知らない「無知の集まり」が介護保険を利用して上手く母を施設に入れることができる可能性は1%以下だと思う。
寝たきりは突然やってきて、その時に介護保険の認定を受ければすぐに施設に入れると思っているからだ。
私をガン無視して私の知識から情報を得ることもしない。
私の体が弱くて小さい頃から病気ばかりの人生なのを知っているのに、母の最期を看取るのは私だと勝手に決めていたようだ。
母が最初に倒れた時に私は姉妹にキチンと宣言している。
「私ができるうちは私が母の面倒を見るけれど、それが何年かはわからない」と。
すでにその時には私は大きな病気を抱えていたからの言葉だったのに、想像力がないと言うか、自分の基準でしか物事を判断できないと言うか、呆れ返る。
悪企みが成功したのかしなかったのかは、これからの反応を見なければ判断できない。
すでに1人、これまたドアホなことに要介護者である叔母に私のことを電話で報告したから、叔母から私に電話があったけれど(笑)。
叔母は自分が障害者なので、私の病気を知って泣いてくれた。
私が叔母に言った言葉は「私のために泣いてくれてありがとう」だ。
「私のために泣いてくれる人がまだいたんやね」とも言った。
叔母は時代の犠牲者でもあるけれど、私は時代に振り回されることはなかったかもしれない。
医学の発達がもう少し早ければ、症状の緩和ができたかもしれないが・・・。
私は幸せだ。
私のために泣いてくれる人が最低でも2人はいることを知ったから。
息子と叔母。
この2人だけでいい。
今回の悪企みに協力してくれた息子にも感謝。

さぁ、母を介護するのはだぁ~れだ?

2010年1月2日土曜日

明けましておめでとう、私

よく生きたね

年を越せたね

まだ家の片付けが終わってないもんね

生きる意味はあるよね

少しだけね

何とかしなくちゃね

このダレダレな人生