2010年3月29日月曜日

良かったね

友達の子どもの高校合格祝いを土曜日にさせてもらった。
子ども本人さんの希望でカラオケ大会♪
その時に、友達におすそわけに戴いたイカナゴを食べ尽くして、空いたパックにお菓子を詰めてお返しした。
ついでと言っては失礼だけど、整形外科の医師に私の体には気休めにもならないと言われた「ヒアルロン酸」も進呈。
息子も友達の子どもが腐女子と聞いて、お好みのアニメのシンラセンセイのコスプレ披露!
カラオケ大会は好評のうちに皆ニコニコで終了。

こんな安上がりで申し訳ないとは思ったけれど、本人さんが喜んでくれればこちらも嬉しい。
私の闇は、こういうナンでもない普通の事で癒される。
友達もちゃんと私が喜ぶ事を知ってるような気がする。
合格祝いなのに、私の癒し大会になってどーする…(〇>_<)

良かったね。
本当に良かったね。
Mちゃんの高校生活が、未来が希望にあふれて、どんな時でも優しいお母さんが側にいて、きっと素晴らしい世界が待ってるよ。

そういう未来がくるように、おばちゃん達オトナは頑張らないとアカンね。
なんとかするから絶望だけはしないでね。
望まれて愛されて生きている事を忘れないでね。
腐女子でもええのよ。
気持ちはわかる…と言えば正確な表現ではないけれど、好きなモノは仕方ない。
本当に良かったね。

2010年3月25日木曜日

相談→子育て

3連休中に東京の友達と晩ごはんした。
彼はいつも突然やって来て、私は楽しい。

今回は彼の相談にのるハズだったのに、いつの間にか私の子育ての話しになってしまった。
まぁ、話しの流れからそうなってしまったのは自然だとは思うけれど…。
彼の相談が「しょうがい者の親に関すること」だったからだ。

「しょうがい者の親」って言っても、人それぞれ考え方は違う。
自分の子どもの躾方だって違う。
それは、しょうがいがあろうがなかろうが一緒。
親は親でしかない。
子どもが未成年で学校時代なら、多少の意見のすれ違いは流せるけれど、大人になった子どもの親が意見を譲るとは思えない。
バラバラで当たり前。
だから彼には私が他のご父兄から嫌われている理由を話すことになった。
私の子育ては「普通」だったから。

子どものしょうがいを受け入れながら子育てをする=特別なことは何もいらない、子どもから教えられることの方が多くて楽しい……これが「しょうがい者の親」には通用しないことを話しただけ。

通院だの服薬だのリハビリだの運動制限だの食事制限だの、そんなモノは何も特別なことじゃない。
学校中を走り回ったって、学校行事の意味がわからなくったって、校長先生や用務員さんや給食のおばちゃん達と仲良しで楽しいならそれでいいんやないの?
今でもカタカナがわからなくったって、他人の悲しみに寄り添うことができる人間の方がいいんやないの?

私は私と同じように子育てしている「しょうがい者の親」に会ったことはないけれど、私だけではないはず。
だって私にできたのだから、皆できるはず。
でも、現実は私みたいな親は「しょうがい者の親」ではないらしい。

だから嫌われているらしいのだ、と。

しょうがいがあろうとなかろうと、自分の子どもはかわいい。
かわいいからこそ「将来困らないように」と考える。

……普通やん。

ただ、無理強いはしたくないと私は思う親だっただけ。
子どもにとっては迷惑な親だったかもしれない。
自分で何とかしないといけなかったから。
だから普通の子育てをしただけで、特別なことは何もしていないのだ。
一緒に笑って、一緒に怒って、一緒に泣いて、普通に親子ゲンカする。

彼は独身だから「子育ては楽しそう」と、本来の相談の目的とは違った感想を言ったけれど、相談内容は自分が考えてたよりもはるかに事は重大だとは理解してもらえたようだ。

ま、楽天家の彼がどんな答えを出すのかは、お茶でも飲みながらゆっくり待ちましょう(笑)。

2010年3月23日火曜日

義務と権利

今の世の中、「権利を主張する人」はたくさんいるけれど、「義務を果たす人」はそうそういない。

この間の司法書士相談で、『親の介護は子どもの義務だ』と言われた。
親に子の親権があるように、子にも親を監護する義務があるのだ。

そんなことは知っている。わかっている。
ただ、私にだけその監護義務があるワケではない。
他の兄弟姉妹にも等分にあるのだ。
相続権が等分にあるように。

その監護義務を放棄して相続権だけを主張するのは、まさしく「権利を主張して義務を果たさない」ことになる。

私はもう、どちらも放棄する。
親への監護義務は十分果たしたと思うし、監護ができない以上、相続権を放棄するからだ。

『義務を果たしてこその権利』

私は自分の子どもにはずっとそう言い続けている。

不当な扱いに対して権利を主張するのはいい。
ただ、果たさなければならない義務を放棄して不当な権利を主張するのはよくない。
「人間の世界」で生きていくからには法に従うのは義務だからだ。

その法が子どもに対して「親を監護する義務」を決めているのだから、私は義務を果たせないことになる。
だから権利を放棄する。
この論理のどこに間違いがあると言うのか、誰か教えて欲しい。

結婚するまで母に生活費を渡していたというだけで母を監護する義務は果たしたという主張が通るのか、誰か教えて欲しい。


もう、私のことはほっといて欲しい。
祖母と父以外の家族の誰からも愛されずに生きてきたのに、最後の最後で頼らないで欲しい。
私を愛して育ててくれた人達はもうこの世にいないのだから、産んだというだけで縛らないで欲しい。

私はコミュニケーションが苦手で愛想のない人間だけれども、肉親に嫌われて生きてきたのだから他人に嫌われることなど平気な人間になるのは当たり前だと思う。
私の欠点が母をそうさせるのかと悩んだりもしたが、他の兄弟姉妹にも嫌われている母なのだから私だけの問題ではないという結論になる。

だから、もう私のことはほっといて欲しい。
自分の好きに生きているのは母だけではない。
母のDNAを持つ私もまた自分の好きに生きる人なのだ。
そこは親子なのだ。

私は好き勝手に生きて、勝手にこの世を去るから、もうほっといて欲しい。

2010年3月21日日曜日

あくまでも

自分のこと。
相手の気持ちを想像することができない。

そんな母を捨てて、私がこんなに苦しい思いをしているのに、アッケラカンと「家に来い」と電話してくる。
『あなたを捨てました』の一言が言えない私。
電話を解約したいと、できないことも考えてしまう。


司法書士相談でもラチがあかない。
「元凶はお母さんですね。どうしようもありません。」と言われただけで、赤の他人にそんなことを言わせる母という人間が余計に醜く思えた。

介護保険の認定が何故そんなに自己崩壊につながるほどのことなのかわからない。
認定しても絶対に本人が言うほどの自己崩壊はないと思う。
今までがそうやから。
したらしたで、アッケラカンとサービスを使うようになると思う。
今までのことをなかったことにして。
私に対する罵詈雑言やストーカー行為もなかったことのように電話してきたのだから。

私に昭和時代の介護を平気で期待する、その脳の構造がわからない。
病気で先に死ぬかもしれないと考えない、その脳の構造がわからない。
私の体で病気でない健康な部分を探す方が難しいのに。

捨てると決めたからには捨てなければ。
私にはまだ子どもを守る仕事がある。

2010年3月19日金曜日

泣いてばかりの私の話しを黙って聴いてくださって、ありがとうございます。

さすがに良い言葉はなかったと思います。

誰にも言えないことを、私が唯一話しているからこそのことだと思います。

ありがとうございました。

2010年3月12日金曜日

思い出させないで

「障害者保健福祉計画策定」・・・

思い出したくないのに、こうやって何かしら思い出す機会が訪れる。
「いやな思いをしたこと」・・・
いっぱいあります。
「困ったこと」・・・
いっぱいあります。
子どもがしょうがいを持って生まれたというだけで。
医療・保健・福祉のお世話になってきました。
でも、実際に力になってくれたのは福祉事務所の親身になってくれた方と保育所の先生、それから子どもの友達になってくれた子ども達。
夫も夫の家族もすごくすごく頑張って助けてくれようとしたけれど、それは、その時の私が欲しい援助じゃなかった。
もともと私の家族は誰も助けてはくれなかったから、それを恥ずかしいと思う気持ちと遠慮が、私を素直に要求することから遠ざけていた。
今振り返るとそう思う。
離婚してしまったけれど、それは全く後悔はしていないけれど、今も夫だった人の家族には感謝している。
こんなことまで思い出させるなんて、残酷。
早く清書しなくちゃ、と思うだけで〆切が近づいてしまった。
「いやなこと」「困ったこと」・・・
もう全部過去のことなのに、昔と今とごっちゃになって感情が迸る。
福祉は残酷なものだと、改めて感じる。
それを仕事に選んだ・・・選ばされたかもしれないけれど、私は残酷なことの中にいる。
いつもいつも他人の泣く姿を見て、自分ではないと自分に言い聞かせ、これからの話しをする。
福祉に関係なく生きている人の言葉に腹が立つ。
福祉関係者の無責任な言葉に腹が立つ。
どの人も「人」。
人であることには違いはないのに、どうして上手くいかないの。
自分や自分の家族の責任は結局その人本人にしか取りようがないのに、まるで法律がその人の人生を握っているかのようなおぞましさ。
それを自分が握っているかのように振舞う人のおぞましさ。
「上」とか「下」とか私は考えたことがない。
どの人も人。
しょうがいがあるから法律に振り回されているんじゃない。
人は大昔から全員振り回されている。
得たいの知れない「権力」に。
そう、だからこの仕事を辞められない。
ちゃんと書こう。
ちゃんと発信しよう。
昔、夫の家族に言えなかったこと。
自分の家族に言えなかったこと。
周りの人に言えなかったこと。

私はしょうがいを持って生まれた子ども達を愛しています。
子ども達が「人」として生きる条件は法律に縛られるものではありません。
子ども達が自分で人生を生きるのです。
その選択する権利だけは奪わないでください。
私が自分1人で生きてきたとは思いませんが、選択する機会はありました。
その選択権だけは奪わないでください。
と。

2010年3月9日火曜日

苦しい

食べられない

外に出られない

体がだるい

何もする気がしない








これだけ並べると「鬱病」と診断されてしまうから病院には行かない。
普通に話すことも、誰かの悩みを聴くこともできるのに、自分の悩みは解決しない。
ただそれだけ。
仕事ができているかと言えば、できているともできていないとも言える。
お客様が来ないからだ。
でも、こんな状態の時に来られても困るのは私だから、天の配剤というか、うまくできているというか(笑)。

もうすぐそんなことも言っていられない。
やらなアカンことはいっぱいある。
母の怨念を背中に感じながら生きていく。

そうそう。
事情を知らない人に話してもラチはあかないけれど、やっぱりお年寄りはスゴイなと思う。
アカンことはちゃんとアカンと言うてくれる。
私にはガツンと言ってくれる大人の人が必要だ。
こんな時、介護の世界に戻りたいと思う。
あのなんとも言えない幸せな空間に戻りたいと思う。
オトナの話し相手が必要だ。

母と別れるこのツラサを母は知らない。
知らなくてもいい。
知ろうともしないだろうし。
ただ、私はこれで何人の人を捨ててしまったのかと思うと、また自分を責めてしまう。
こんな生き方しかできない自分が許せない気分になる。

精神的に捨てられて、何のフォローもなかった子どもはこんなに弱い。

ギャクタイノレンサ

私は私の子どもに同じことをしようとする自分を抑えるだけで精一杯。
こんなに愛していると、言葉に出すことで抑えている。
しんどい人生。

2010年3月5日金曜日

ありがとう

友達のありがたさに感謝します。
こんな私と友達してくれて本当にありがとう。

離婚した頃、「友達は2度とつくらない、いらない」と決めた私。
対人恐怖症になるほどの狡猾な人や、優しいけれど、たぶん私を鬱陶しいと思っていた人。
社会に出る前に結婚して、就職を諦めざるを得ない状況で、何も知らなかった私に「世間」や「社会」を教えてくれた方々には感謝しますが、しますが・・・何も言うことができません。
引っ越して彼女と出会わなければ、本当にまだ「友達はいらない」と突っ張っていたかもしれません。

私には友達と呼べる人はそう多くはいません。
もう「友達はいらない」とは思っていませんが、「たくさんの友人はいらない」と思っています。
また母の話しになってしまいますが、母は建前だけの関係でしか交友関係を作れない人だったから、老人になった今は誰も母と付き合おうとはしません。
お金目当ての下心がある人しか近寄ってきません。
それがわからない母を憐れだと思いますが、その余波がこっちにくると大変迷惑です。
それに、何十年もお互いの家を行き来してきた母の親友だと思っていた人が母から離れた時に、私は「こんな関係ならいらない」と思いました。
その人はわざわざ私だけに「あなたのお母さんとは喧嘩した訳じゃないの。わかってね。」と言いにきました。
母と私をはっきり区別してくれるその人の気持ちが痛いほど伝わりました。
たくさんの友人がいたのに母は今は1人きり。
いつも皆の中心でいたい母には今の状況は耐え難いものだろうと思います。
でも、それも母のしてきたことの報いだから仕方がないでしょう。
私はそんな関係ならいらない。

ありがとう。
ありがとう。
本当にありがとう。
友達でいてくれて。

2010年3月3日水曜日

限界

もう母の悪口は言わない書かないと決めていたのに、そうさせてくれない。
私は人に「させられる」とは思いたくないからできないことは「できない」とハッキリ言う。
でも、母に関してだけは「させられる」。
母はたぶん、生まれつきの病気で、それに追い討ちをかけるように環境や時代が作用した。
認知症は多少あるけれども、昔からの性格の悪さに拍車がかかっただけ。
それに悪魔のようなタイミングの悪さは、母の持っているものとしか思えない。
本当に、本当に、本当に、バッドタイミングで自分勝手なことを言う。
3歳の子どもにさえ容赦しないのだから、今の大人の私に遠慮というものはなくて当たり前だ。
彼女の母、つまり彼女の子ども達のおばあちゃんが亡くなったと連絡が来た。
その時、母は我が家の留守電に私に対するイヤガラセを入れていた。
彼女の子ども達のSOSのBGMが我が母のイヤガラセ。
もう、限界。
親の認知症で悩む子どもはまだ幸せだ。
もともとの人格で、ただ産んだというだけで、子どもの幸せを奪う。
自分が産んだ子どもの幸せさえ嫉ましいのが母。
もう、限界。
いつまでも生きるつもりでいる、自分だけは死なないと思っている80歳を捨てる。
たった一言、「お墓に入る準備をしてください」と手紙を書いただけで毎日のようにイヤガラセ。
勝手に私名義のモノを作って、それが迷惑だったから解約しただけで毎日のようにイヤガラセ。
留守電に延々と恨み言を録音する。
母のプライド、世間体、を粉々にした、と言う。
こちらの事情など関係ないのは前から知っている。
私は私の子ども達をオバアチャンから守りたいだけ。
私は子どもで被害に遭ってもしょうがないけど、母は孫まで巻き込むつもりらしい。
母のために一族子々孫々は尽くさなくてはいけないらしい。
もう、限界。
私にはそんな時間も体力も残されていない。
家を片付けて、書類を整理して、子どもが困らない生活を送れるようにしたい。
・・・これを書いている今もイヤガラセの電話があった。
昨日からは無言電話。
ストーカーに切り替わっている。
もう、限界。
もう捨ててもいいでしょ。
私は母に最初から捨てられているから、私が母を捨ててもいいでしょ。
もう、充分私は尽くしたと思う。
親子という縛りから開放されたい。
一族というワケのわからないモノから開放されたい。
母が死んでも泣かないと思う。