2010年1月16日土曜日

やっと

少~し向き合えるようになったのかもしれない。
いろいろな事に。
怒りをぶつける相手のいない事から15年かぁ・・・。
去年、広島で原爆資料館で見た写真と同じような光景を実際この目で見た日から。
「冷静沈着に行動できる」私は、その時でさえ変な人と呼ばれた。
自分の子どもを守ることしか頭になかったから、周りの声はどうでもよかった。
ただ、マスコミで報道されているような事も事実だけれど、障害者が困った事も事実だけれど、母子家庭が困った事はあまり報道されない。
家がない、小さい子どもがいる、障害児だ、お金がない、食料配給に並ばなければいけない、銭湯に子どもを連れて行く、会社に行って働かないと来月の給料が出ない・・・
地域の住宅修理の話し合い、学校との連絡・・・
転々と住む所を変えながらのいろいろな事は1年間の記憶がなくなるくらいだった。
でも、ハッキリ覚えているのは父親の死だ。
3月に病院に行った時にはたぶんもう手遅れの状態だったのだろうと思う。
水道がまだ復旧していないからと、病院側の他市への転院を断った父。
「自分の家を守りたい」
この言葉が真実だったのかどうかはもうわからない。
8月に入院するまで自宅をその手で建て直した。
私もいろいろなことに忙し過ぎて、父の様子を見に行けたのは10月からだった。
それが良かったのかどうかもわからない。
父には私が死神に見えたのだろうか。
あちこち歪んだままの家に戻って学校との連絡にも困らなくなった時から、子どもを守ることから父に会いに行く事にエネルギーの半分はシフトした。
助からないという事は、私にはわかっていたように思う。
医師の説明も十分理解できたし、それが「余命○○ケ月」と呼ばれるものである事もスンナリ納得できた。
変な人間だと、自分でも思う。
我が父の余命をスンナリ受け止めるなんて。
でも、現実は変えられない。
できる事は全部する事しかないと、生きている間が全てだと、その時はそう思った。
でも、母とは違う悔いは残った。
地震がなければもう少し生きられたかもしれない。
父が家に執着しなければもう少し生きられたかもしれない。
転院していればもう少し生きられたかもしれない。
どれもこれも、今となってはしかたがなかったとしか言いようがない。
地震は起こっていたし、明治からの家を支えたのは父だし、転院していても手遅れだった・・・。
私にできる事は全部できたかな。
お互い強情で頑固だから喧嘩したそのまま別れてしまったけれど、それで良かったのかな。
「ごめんね。」
の一言を言えれば良かったのかな・・・。
父も震災死に認定される事を母に伝えたけれど、母はキッパリ断った。
それは父も望んでいない事かもしれないけれど、私はお墓以外に父に会いに行く場所が欲しかった。
いつでも父に会える場所が欲しかった。
それは私の我儘なのだろう。
父を思い出すのは年に数回になってしまったけれど、それでもこんなに哀しい思いが胸から湧き上ってくる。
傷ついたのは私だけじゃない。
哀しいのは私だけじゃない。
そう願っている。

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