2018年9月12日水曜日

気づき


学校の教育と家庭の躾は根本的に違う

私は教師の「指導」という言葉が大嫌いだ

指導とは行く道を指し示して導くという意味

学校でできるはずのないこと

躾は道徳的に美しいという意味

家庭でしかできないこと

この相反する言葉の意味を知らない人達でもきちんと躾はできる



私は躾と同時に療育という場面にずっと付き合う子育てだった

最初は療育の意味もわからなかった

わからないことは調べる

という基本的なことをしたら先生に怒られた

ここでもまた療育と指導を混同する教師がいた

母親は子どもの躾に専念しながら家庭でも療育をする

勉強して何が悪い



私は理屈屋で屁理屈の多い人だとよく言われる

納得できないことを放っとけないだけなのに

自分の子どものことを理解したかっただけなのに



それが今は仇になっているのかもしれない

理屈を知らなくても躾ができる大人になれなかったから

そういう大人を見下してきたのかもしれないから



無私の愛情を注いできたのは本当

自分のことを後回しにして子どものことだけを考えて生きてきたのも本当

息抜きやリフレッシュをする時間がなかったのも本当

でも私は私を大切に思うことも忘れなかった

そうしないと子どもは見抜くから



どうして息子は私に恥ばかりかかせるのか

そう思ったことは数えきれないほどある

障害は関係ない

そういう子どもだと

そういう人なのだと

自分に言い聞かせて誤魔化してきたのかもしれない

息子は私に恥をかかせるつもりは全くないのだから



人生の終わりに近づく今

そういうことに気づく私は愚かだ

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